まち案内

田無山 総持寺 ~郷土史家と巡る~

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市指定文化財や戦災遺跡を伝える寺院

郷土史家と史跡を巡るこのシリーズ。今回は、近辻喜一さんの案内で、西東京市田無町にある「田無山 総持寺」を訪ねました。まずは、目次的に、全体の15秒スライドショーからどうぞ!

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地元で総持寺と親しまれるこの寺院。冒頭から驚かされたのは、かつてはまったく別名のお寺だったということです。

その名は「西光寺(さいこうじ)」。場所も現在地ではなく、現在の西東京市立田無第二中学校の正門辺りにあったそうです。現在も近接する「田無神社」も、かつては同中学校付近にあったわけですから、中世までのこの一帯は、同校周辺が中心地だったとみられます。

さて、その西光寺が現在地に遷ったのは、江戸城建築のための石灰を運ぶ街道として、青梅街道が開削されたことによります。350年ほど前のことです。

現在の本堂は、江戸時代・嘉永年間(1848~1855年)に再建されたものだそうです。その後、明治末期から大正時代にかけて、かやぶきだった屋根がトタンに改修されました。

このことが本堂を守ることになります。近辻さんが教えてくれました。

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トタン屋根だったおかげで、大火の巻き添えにならなくて済んだのですね。

この屋根改修は割と大工事だったようで、境内横には「報恩」と彫られた大きな石碑も建てられています。これだけの石を用意するのは困難だったはずで、屋根改修への人々の思いが伝わってきます。なお、その屋根も、昭和35年には現在の瓦葺きに変わりました。

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ところで、西光寺は、現在の田無神社の前身になる「尉殿権現社」の別当を勤めていました。そのことにより、幾つかの文化財が、今も総持寺に伝わっています(下の記事で主要なものを取り上げています)。

西光寺が総持寺となったのは、明治8年(1875年)のことです。同じ真言宗であったことから、近くにあった密蔵院、観音寺と合併しての創建となりました。

現在、「田無山 総持寺」は、関東三十六不動尊霊場の第10番札所、多摩八十八ヶ所霊場の第33番札所、新東京百景に選ばれています。その広い境内には、明治新政府の頃、東京で抵抗する「彰義隊」から分派して生まれた「振武軍」の約300人が、周辺の村々から軍資金を集めるためにここを拠点としたというエピソードも残っています。

 

地元の篤志家が梵鐘を寄付

次に近辻さんがご案内くださったのは、同寺の梵鐘です。

立派な梵鐘と鐘楼ですが、実はこれは、地元の加藤建設が戦後に寄付したものだそうです。そのエピソードを近辻さんは「これも戦災遺跡」と評します。

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寺院入口には「平和観音」

青梅街道から同寺に入るとすぐ左手に、「平和観音」があります。これは、もともと田無駅北口近くにあったのですが、駅前再開発に伴って移されたものです。

近く(現在の武蔵野市)に中島飛行機の武蔵製作所があったことから、現在の西東京市エリアは、軍需工場を狙った空襲の流れ弾の被害に幾度も遭いました。

中でも、特に甚大な被害があったものが、1945年4月12日の空襲です。このときには田無駅周辺で50人以上が亡くなりました。

戦後、その遺族たちが平和観音を建てます。街道沿いで音声が少々聞き苦しい映像ですが、観音像などご覧ください。

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山門には意外なエピソードが

続いて近辻さんが触れたのは、青梅街道から真っ先に目に飛び込んでくる山門です。

この山門には東西それぞれに立派な仁王像があり、なかなかの由緒を感じさせます。……が。近辻さんによると、意外にもこの山門は、1980年(昭和55年)に近隣の安田建設が築いたものだそうです。それまでは山門はなかったそうで、田無育ちの近辻さんも「やはり、あるとないとでは、違いますね」と語ります。

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「尉殿権現社」の神号額

本堂の中にも入らせていただきました。

そこには、市指定の文化財が大切に保管されていました。

郷土史家の近辻喜一さんが最初にご紹介くださったのは、「尉殿大権現 神号額」です。

これは、かつて田無神社の拝殿にかかっていたものです。なぜそれが総持寺にあるかというと(上述の繰り返しになりますが)、明治5年まで、総持寺の前身である西光寺が、田無神社の別当を勤めていたからです。別当とは、いわば管理者。尉殿権現社は、田無神社に名称変更する前の社名です。若干、ややこしいですね。

新政府の神仏分離令により、寺社が明確に分けられた際、別当だった西光寺のもとに、尉殿権現社の重要物が引き取られました。その一つがこの神号額です。縁に花頭曲線の装飾が施され、赤漆で塗られたこの額は、江戸時代中期の作とみられますが、作者等は不明のようです。近くで撮らせていただきました。

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月1度だけ開帳の倶利迦羅不動明王像

神号額と同じく、明治5年に尉殿権現社(田無神社)から引き取られたものに、倶利迦羅不動明王像があります。現在も本尊前に納められて大切に拝まれており、毎月28日に開帳されています。

なお、同型の倶利迦羅不動明王像が、同市住吉町にある「寳晃院」にもあり、こちらは市指定文化財になっていますが、総持寺ものは指定文化財ではありません。

こちらも、近くで撮影できました。

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田無の名主・下田半兵衛像

幕末期の田無の名主・下田半兵衛富宅の木像も、総持寺本堂に保管されています。1859年(安政6年)、富宅(とみいえ)が58歳の時に、息子が製作したものだそうです。

なお、田無の名主は、代々「下田半兵衛」を名乗っています。従って、特定人物を示す場合には「下田半兵衛富宅」のように表記されます。

この像の特徴として、厨子の扉裏にその功績が書かれていることです。そこには「備荒貯蓄に尽力し、尾張藩のお鷹塲案内役となり、御用勤勉により、ご褒美をいただき、苗字を許され、尉殿権現本殿並びに拝殿を再建し、養老畑を以って老人を助けた」と漆書きされています。

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知られざる鳳凰の彫り物

最後に、ほとんど知られていない、郷土史家らしい視点のトピックスを。

本堂に上がる階段手前の欄間(らんま)に、幅1メートルほどの鳳凰の彫刻があります。これは、幕末の本堂再建のときにつける飾るつもりでいたのが、何らかの理由で許可がおりず、断念したものとみられています。

どんな思いでこの欄間に飾ったのでしょうね。当時の人々を感じられる装飾物といえそうです。

なかなか見事な彫刻です。ご覧ください。

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イッツ君
見どころがいっぱいだね。
境内の石碑も面白いよ。寄進した町の人たちの名前がたくさん彫られているからね。
レッツちゃん
ザッツ君
境内の大イチョウも、立派で有名だよね。

 

「田無山 総持寺」の歴史を追うとき、どうしても田無神社との関係が頻繁に出てきます。田無神社も郷土史家・近辻喜一さんにご案内いただいているので、ぜひ併せてご覧ください。(※ここにアドレスリンク)

総持寺、田無神社から感じるのは、やはり田無の歴史は、水が湧いていた「谷戸」から始まり、青梅街道開削によって村の中心が変化したということです。今も並び合う両寺社。気軽に訪ねてみてください。

 

データ

◎田無山総持寺(市ホームページ)

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/daisuki/spot/tanasisansozizi.html

 

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